9.世界に鳴いた

女の名は美智子。
俺と一緒に街を歩けば通行人はみんな振り返った。
そんな器量のいい女が俺に溺れている。


美智子は俺の言うことを何でも聞いた。
最近では大声を出せば30秒も待たずに飛んで来るから、
身の回りの世話はすべてあいつに任せることにした。

俺は何をしてやるのかって?
何もしない。
ただ、美智子を見て笑ってやるだけさ。
それだけで美智子はホッとした表情を浮かべるのだ。


いい女が髪を振り乱して俺のために生きる。
今までの生活をすべて捨て、俺だけを生き甲斐にしている。
俺は一人の女の人生を狂わせた悪魔かもしれない。
だが、そんなこと知ったことじゃないんだよ。
あいつ自らそれを選んだだけなのさ。


それはひどく空気の乾いた冬の夕暮れだった。
4畳半の部屋で二人きり、いつものように美智子を呼びつけて気がついた。
そういえば、最近全く笑わなくなったな。
何かあったのだろうか。俺はじっと美智子を見つめた。


「何もないよ」
なんでもないことはなかろう。

「何もないの……」
じゃあ、目を見て言えよ。

「ごめんねたっちゃん。もう、家に、何もないの……」


美智子の目からぽろぽろと水滴がこぼれ落ちる。
俺はただただ狼狽し、あいつに抱かれるまま天井を見上げた。


「もう家にお金がない。私には帰る場所もない。役所からお金は降りないし、アイツは見つからない。どうしたらいいの、四面楚歌よ」


いつもバカのように笑っていた美智子が俺にこんな姿を見せたのは初めてだった。
触れた肌はこんなにも熱いのに、ときおり冷たいものが俺の頬に落ちた。
美智子の中の何かがぷっつりと切れたことだけは、俺にも分かった。


「だぁ……」
「ねえ、山の公園にお猿さん見に行こ?」


俺の言葉を遮るように突然そう言うと、
美智子は支度をはじめた。


「人もいないだろうし、都合がいいわ……」


山の上の猿公園。
それは以前一度だけ、二人で散歩に行った場所だ。
二人とも檻の中に目がくぎづけで、猿たちの奇行に大いに笑わせてもらったな。
そんな幸せだった時間を少しでもかき集めて心を温めようとして、
俺たちは突き刺さるような寒さの中、身を寄せ合って山を登ることにした。

日が完全に落ち切る直前、目的地に辿り着いて愕然とした。
檻の中に、猿は一匹もいなかったのだ。
誰かが移動させたのか、それとも全部死んでしまったのか。
分からないが、そこに猿がいない事実だけが全てだった。


「こうやって、いつも大事なものを奪われるのね」


ぽつりと、美智子はつぶやいた。
骨と皮だけになり、肌や髪のツヤも失われた美智子なんて、
街を歩いてももう誰も振り返ることはないだろう。
自分はメシも食わず、金を手に入れるために働き、
ふんぞり返る俺を無条件に愛し、
見返りを求めずに優先していたのだ。

こんなにも風貌が変わっていたことに今更気づいた俺が、
このまま、美智子のそばにいる資格なんてあるのだろうか。


ふと、鼻先に甘い香りを感じて目を空に向けた。
俺たちの背中を覆いかぶさるようにそびえ立つ大きな木の枝に、
小さな白い花がぽつりぽつりと咲いていた。
控えめながら美しく目を惹くその花は、美智子に似ていると思った。
懸命に手を伸ばし、やっと触れた花を握りしめる。
手の中でつぶれたそれに笑顔を添えて差し出した。

美智子の世界一美しい目が大きく見開かれる。


「たっちゃん?」
ああ、プレゼントだ。

「梅の花……」
よく知らないが、美しいものだな。

「ねえ、どうして笑ってくれるの? 私、たっちゃんとここで、今から……」
言うな、それ以上言わなくていい。

「そっか、もう春が来ていたのね。そんなことすら気づかないくらい、いっぱいいっぱいで」
美智子、これからどうするつもりだ?

「……私もう少しがんばるよ。冬は辛いけど、必ず春は来るわ。そう……でしょ?」


美智子は俺を抱えたままその場にうずくまり、みっともないくらいの大声で泣いた。
触れる手が冷たい。
目からあふれるものも冷たい。
最悪だ、やめろ。


……いくらでも望むまでそばにいてやるさ。
今はまだ何もできないけれど、
そのうちお前を養ってやるから。
だからお前のそばにいさせろ。
それに、そろそろオムツも冷たいんだよ。


二人以外、誰もいない小さな公園で、
俺は母に負けんとばかりに大きく泣いた。
 
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遠藤あかね

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絵日記を描こうと思ったけど
無理だったので
50のお題という
創作文章系ブログにします。
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